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ちょっと長かったんで、下の記事から分けました。

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感情は正論ではないと思うんだけど
しかし法的にも慰謝料とかいう、感情を代償するものがあるのだよね。
つまり感情の正当性が理屈の正当性に匹敵している。

あれなんなんでしょう。
すべてを過失の割合で賠償すればいいじゃないか?
時間が掛かって面倒くさいから、手っ取り早く金で解決しようぜってことなんでしょうか。きたねえw

大体心理的負担なんて、それこそ個人的で千差万別で計り知れないじゃないか。
どれだけ苦痛に感じたとか。どれだけ期待をしていたとか、どれだけ失望したとか。
「婚約を破棄」なら、生計にも関わるからお金で賠償するのもわかるけども。
感情を金銭に等価交換て、等価がわかりませんもの。そりゃ泥沼にもなります。

まぁ、何をもって過失とするかが明暗分かち難いものな。>すべてを過失の割合で賠償

感情を交えての主張は、大変利己が絡みやすい。
ので、聞くにも、言うにも危険だと思います。



慰謝料について調べてたら、隣家に木の枝を伐採されたときの損害賠償請求額の決定項に 木への思い入れってのがあったww
木への! 思い入れ!
法律すげえな、感情入り込む余地でかいなw


なるほど。慰謝料をとるには、日頃から感情割増で思い入れ強く振舞わなきゃだめなんですねb

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「大体」とか「そもそも」とか、どんどん話を遡らせる人は、話のテーマが据わっていない。
最終的に何の話をしてたのかわからなくなるw
適宜削ってますがw

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と、ここで感情論について調べてみると、
「思う」「~じゃないでしょうか」の文は、その理由を必要としない主観的なものであるため感情論だそうです。

(抜粋)
~自分が思っている事柄だけを述べています。言っている事に論理のつながりがなく、単に自分の思っている事をいろいろ並べてみただけ~


あれ、その通りじゃ・・・。
前記事の総括部分「思う」ばっかりだし。めちゃめちゃ感情論じゃね?w
理由→主観総括 のつもりだけど。。


正当な意見の主張って本当に難しい。


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とあるものごとについて嫌悪感が募っていくんだけれど、
そういう「嫌悪感」とか、感情的なものを交えて論じるべきではないとは思ってる。


感情を抑えた上、正当を主張するって本当に難しいです。
「大人」になりたいな。なれるのかな。たしか10代から思ってるはずだけど・・・;
どのくらいの人間が大人になれるのか・・・。
多くの先達を仰ぎつつ参ることに致します。

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(感情論について)
怒りや悲しみが無価値とは言えないんだけど、
それらの感情で語られる主張は、半分くらいしか聞くべきでない。
というのも感情というのは、ごく個人的なものであり、主観的なものだから。
感情が強いほど正しいわけではない。

例えば、私も人並かたぶんそれ以上に怒りとか嘆きとかを強く抱えてると思うのだけど、
それを自分の思うままに主張して、尚且つ聞き入れてもらったとしても、
それは私の我侭に他人を従わせることでしかない。
それは正しさじゃない。


これが、大多数に一致する感情だったとしても同じことで、
即、大多数=だから正しい とは言えない。
ここら辺はちょっと感情論とはズレて集団心理の話かもだが、

大勢が同じことを言ってるからきっと正しい、という無闇な信頼は危うい。
確かに、時間を掛けて、多くの人に、フィルタリングされた結果としての常識、モラルは、洗練されて理に適ったものであることが多い。
多いけども、必ずではない。通念がいつも正しいわけではないし、中には悪習というものもある。
日本というコミュニティの中では常識であっても、世界では常識ではない、等。
数さえいれば勝ち、というルールも、一面、真実ではあっても、正義と同義ではない。

それから、多数に属していると、埋没してその人自身の理屈が見えなかったりも。
周りの色に合わせているとか、迎合しているように見える。
「私が言い出したんじゃない」「常識だから」と他人の言葉に責任転嫁もしてしまえる。という隙がある。自分の言葉を自分で背負っていない。

感情論に戻します。
モラルとか常識とかでバックアップされてるらしきことでも、
本来は妥協なくきちんと自分の頭で同じ答えを導き出してから主張するべきだ。
-感情に拠らない正しさを-自分の中ででいいから、一度でいいから、しっかりと証明していないといけない。なにをもって悪いのか。自分の主張は正しいのか。でないとただの好きだ嫌いだの感情論に落ちてしまう。


私は、正しさは感情を超えたところで求めるべきだと思う。
正しさは、ポジションを外してフラットな目線で色眼鏡を外して判断するものだと思う。
正義の怒りとか、ないと思う。
それは正義ではない。ただの怒りだ。主観的な正義なんてない。
正義は熱くも冷たくもない、温度のないものだと思う。


というふうに、自分は正しくなりたいわけで、
主張の場面では感情を廃していけたらなぁ、と思うのですが。


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今ふと、メロンパンの食感だけ思い出して「あ、なんか食べたい、なんだこれ?」
ですぐにメロンパンだと気付いたんですが、
その食感の表現だけでメロンパンのことを的確に指すって難しいなと思いました。

例えばメロンパンという言葉を使わずにメロンパンを誰かに買ってきてもらうとかを想定すると難しさがわかるのでは。

とりあえず第一に私が思い出せたのは、
「甘い」と「ちょっとサクっとしてる」ぐらいしかなかったです。あと「ふわふわしてる」とか。
味に関しては「甘い」ぐらいしか言い様がなくないですか?
メロンパン独自のフレーバーはあるんだけど、それを表す言葉がない。
メロンの味ですらないし。

これがプリンなら、
「甘くてプルプルしててシロップに少し焦げた苦味と香ばしさがあって、卵っぽさとバニラの匂い」とか、特徴出せるんだけど。

「甘くてちょっとサクっとしててふわふわしてる」じゃ、何買ってこられるかわからないですもの。
むしろ「サクっと」の部分が特徴的だから、そこをメインにフィーチャーされて表面がビスケット的なオーバーサクサクなものをチョイスされそうだし。
サクサクさの具体的な程度とか表せばオーバーサクサクに陥る危険も減るかもしれないですね。
「表面の皮だけちょっとサクっとしてて中はふわふわ」とか。

ここに「パン」っていうジャンルを加えたり、「焼いた」とか「蒸した」とか「冷やし固めた」とかの工程、あるいは見た目の情報まで加えるとぐっと的中率は上がるんだけど、
しかし私が言いたいのは、味とか食感の表現の少なさのことなので、それは違反です。(何の)

メロンパンの味は他のパンとは違うのに、その差異をうまく表せない。
何よりも味が「甘い」しか言えないのが情けない。

色とかと違ってたぶん圧倒的に味の語彙が足りてないと思う。
食べたことのない人に食べ物の味を伝えるって無理だと思います。


味以外でも時々、表現する言葉がなくて残念なことが。
食べ物なら、そのものの固有名詞があるからいいんだけど、気分とか、状態とかでよくありますね。言葉がないだけに、それのことすら思い出せないですが。
外国では「勿体無い」という言葉がないとかね。
色の表現が7色しかないとかね。
言葉がある自分らにしてみればなんて不便な、と思うけど。




なんでこんなこと考えだしちゃったんだ、なんの逃避だと思ってたけど、
絵の発注文の読解と、イメージの的確な表現の難しさっていう今の自分の環境に繋がったりもした。まぁ完全に想定外の範疇でしたが。こじつけとも。

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他人のイメージの読み取りって難しい。 と思う。
相手の頭の中ではしっかり象っているであろうものが、自分の脳内でうまく像を結ばなかったり。
正解は必ずあるであろうに、自分には解けない的な。。。


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最近頭を使うことをしていない。。仮定を組み立てる的な・・。


あと、本気で1年前の勉強の知識が残ってなくてやばいです。
一日10hとか使ってもこれじゃ意味ないよ!><
少しでも引っ掛かりが残っていることを願うのみです。
でも10h使って引っ掛かり数点とか、非効率にも程が・・・。
その引っ掛かりを多く残すような効率良い勉強の仕方とか、意識すべきなのかも。

結局その場しのぎの暗記で終ってるんだなぁ。

でも暗誦は記憶力を高めるのにいいらしいですけどね。

声に出して唱えなきゃいけないのかな。
「暗誦 記憶力」とかで検索すると、スゲー!暗誦しなきゃ!って思わされます。
ユダヤ人の頭がいいのも、経典を暗誦しているからとかいう説も。


最近またちょっと勉強したいなと思いました。
でも時間の浪費は勘弁です。
カラーコーディネーターとか、絵の役にたつかな。
しかしながら今、絵に集中してる時期でもあるんで、そっちが疎かになりそうで恐いのもある。
コンセントレーションを維持できてるうちは徒に外すべきじゃないんじゃないか?とか。



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もうツイッターがあれば、一般人のブログは要らないな^^とか思ってます。日記用途ならまた別ですが。
正直ツイッターがそこまでイイモノだとは、当初思ってなかったでした。


●情報がザーっと流れてくれていいです、ツイッター。
もうちょっと突っ込んで考えてくれる人はブログを書けばいいし。見に行けばいいし。
まぁ、大概そこまで深くは追わないもんで、見出し程度の一文で流れてくれるのはいい。
(自分が発言側として考えても、自分程度のクオリティの低い文章はそこまで真剣に見られなくてもいい、むしろあまり見られても困るという切ない事情。)


検索としても便利。(外部サービスに頼ることになるけど)
ツイッターに限ることではないけど、集まった人の強さを感じますわ。
ツイッターならではなのは、「リアルタイム」で、
つぶやく側としても「特に意図することもなく言う気軽さ」があることかな。
その意図のなさが、全体として何かの波を作ってたりするのが形で見えてスゴイ。人々の感性に直結してる。
この直結感がスゴイと思う。


●あと、著明な人との近さとかは、むしろ慄くくらいです。
例えば人づてとはいえ、首相に意見を見てもらえる、ってことが起こってる。
たぶんいいことなんだけど。 私としては、その負うべき責任感、力の大きさにビビってしまう。
普段いかに無責任で低思考なのかってことでもあります(--
・・・と、ちょっと強張ったりしたり、しなかったり。
打っとけ。ムチ打っとけ!


●あとは、リアルはもとより、SNSには遍く付き物の、人と人との思いの交錯とかもきっと醍醐味ですね^^


>
ブログを書く1つには、「人にわかる文章を書くように」っていう目的もあったんだけどね。ローカル文章だと自分語で完結してて。
と言いつつ、殆どローカルと変わらない文章とか、どういうことなの…。

日本語練習×無責任さ = チラ裏

このスタンスは変わらないと思います!

というか、自分はブログとしての機能は全然使ってないことに気付きました。7%くらいしか使ってないです!
もはや「ネット上」ってだけです!
それでも「ローカル」と「ネット上」ってのは大きく違うけど!


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